「親分、聞いて下さい。私は丸山の屋敷から放《はふ》り出された上、何にも知らない若樣——私の腹を痛めた勇太郎樣まで——命を狙はれて居ます」
お紋の話はまことに混み入つたものでした。——町藝妓をして居たお紋は、受出されて丸山の荻野《をぎの》家に入り、本妻亡き後は、奧方同樣の侍遇《たいぐう》を受け、二年前に跡取の勇太郎まで生みましたが、亡くなつた本妻の弟で、變人扱にされてゐる高木銀次郎が、用人の大澤幸吉と腹を合せて、事毎にお紋母子を陷《おとしい》れようとしたといふのです。
高木銀次郎は兵法忍術に凝つて三十過まで荻野家の世話になつて居るやうな人間ですが、義兄荻野左仲の眼を盜んで、お紋を執念《しつこ》く追廻し、手嚴しく耻しめられたのを根に持つて、惡事の仲間を語らつて、お紋の素姓を發《あば》き立て、到頭荻野家にも居られないやうな事にして了つたのでした。
お紋の素姓——と言ふのは、さすがに本人は言ひ澁《しぶ》りましたが、訊き上手の平次が、いろ/\鎌をかけて引出したところでは、將軍秀忠の命を狙つたといふ疑ひで、宇都宮十五萬石を召上げられ、先年出羽の配所で死んだ本多|上野介正純《かうずけのすけまさずみ》——その謀士で、釣天井《つりてんじやう》の仕掛を拵へたと思はれて居る、河村|靱負《ゆきへ》こそは、お紋の本當の父親だつたのです。
謀叛人《むほんにん》の娘として、お紋は艱難辛苦を嘗めました。淺草の乳母に引取られて育つた上、その乳母にも死別れ、町藝妓になつたところを、荻野左仲の目に留つて、暫らく湯島に圍はれ、本妻が死んでから丸山の屋敷に入つて、跡取の勇太郎を生んだ——と言ふのです。
お紋の異常な美しさも、その魅力の裏に潜む品位も、河村靱負の娘と聞けば、成程うなづけないことはありません。
「私は幸ひ父親の遺した物や、荻野家の御手當で何不自由なく暮して居ります。此儘|朽《く》ち果てゝも怨とは思ひませんが、謀叛人の娘の腹を藉りた子に、三千五百石の由緒ある旗本の家は繼がせられないと言つて、高木銀次郎、大澤幸吉の一味が、私の手から父河村|靱負《ゆきへ》の形見——短刀と系圖《けいづ》を奪ひ取つて、それを證據に勇太郎樣を追ひ出さうとして居るのは我慢がなりません」
「——」
「親分、そんな理不盡なことがあるでせうか。親は謀叛人でも、その娘の私になんの科《とが》がありませう。まして勇太郎樣はまだほんの三つ、あんまりお可哀想ぢやありませんか」
お紋はそつと涙を拭きました。居崩れた膝を直して、下から平次を仰ぐ顏は、何う見ても三十近い大年増ではありません。
母屋《おもや》の方からはガラツ八と三好屋の隱居の歌ふダミ聲。
「ところで御新造、幻の民五郎の話が出たやうだが、彼奴は何うかしましたか」
平次は耐へ兼ねて訊きました。
「昨夜何者とも知れず忍込んで、手文庫の中から手紙の束を盜んで行きました」
「その父上の形見とやらを?」
「いえ、それは袋戸棚に入れてあつたので幸ひ助かりました。盜られたのは、高木銀次郎から私へくれた戀文が七本」
お紋もさすがに極りが惡さうでした。
俯向いてほのかに笑ふと、片面が翳《かげ》つて、何とも言へない淋しさが湧きます。
「何で、そんな物を持つて居なすつた、燒きも捨てもせずに」
と平次。
「萬一、高木銀次郎が私を相手に正面から來た時は、あの汚《けが》らはしい戀文に物を言はせるつもりでした。頼る者もない女は何彼につけて、用心深くなります」
「フム」
「父親の形見の短刀と、系圖は無事でしたが、いづれ今晩あたりは又盜りに來ませう。姿も、形も無い曲者が、嚴重な締りを開けて入つて、好きな物を盜つて、衣桁《えかう》の着物に溶け込むやうに隱れたのですもの、幻の民五郎とでも思はなければ、この眼がどうかして居ります」
「——」
「形見の短刀と系圖が向うの手に入れば、勇太郎樣は蟲のやうに押し殺されるか、野良犬《のらいぬ》のやうに追ひ出されるに決つて居ります。親分、お願ひで御座います。私を助けるつもりで、今晩は此處へ泊つて下さいまし」
お紋は寄り添つて、平次の裾でも、帶でも掴みたさうでしたが、さすが、年にも身分にも耻ぢて疊へ手を落したまゝ、がつくり首を垂れるのでした。
「幻の民五郎には一年越馬鹿にされて居る。勝つか負けるか解らないが、兎に角及ぶだけの事はして見ませう、——ところで、民五郎は、何うして高木や大澤と一緒になつたか、心當りはありませんか」
「何にも、——尤も高木銀次郎は武藝兵法に凝《こ》つて、わけても忍術は自慢ですが」
「フム」
何うやら其邊がキナ臭いやうでもあります。
いゝ加減醉つ拂つて居るガラツ八は、追つ立てるやうにして宵のうちに神田へ歸しました。
それは、お靜が待つて居るといけないと思ふ、平次の心やりからでした。
三好屋の隱居は、止めるのも聞かずに、亥刻《よつ》過ぎ急に思ひ立つて歸ると言ひ出します。
「大丈夫、駒込へ出る前に駕籠を拾つて行く、年は取つてもシヤンとして居るぞ」
そんな事を言ひ乍ら、茶人帽を阿彌陀《あみだ》に、足元危ふく巣鴨の夜の闇へ出たのです。
平次は母屋の奧の一と間、八疊の贅《ぜい》を極めた部屋に、生れて初めての絹夜具に包まれて寢《やす》みました。有明の絹行燈は、少し艶めかしく枕屏風の影を青疊に落して、馴れない平次には結構過ぎて寢心地が惡い位。
枕元の小机の上には、帛紗《ふくさ》に包んで、お紋の父河村靱負の形見と言ふ短刀、——主君本多上野之介が、東照權現樣から頂いて、靱負に預けた儘になつたと言ふ、三つ葉葵の紋を散らした因縁《いんねん》附の短刀——を置いて、何べんも寢返りを打ち乍ら、惱ましい眠に落ちました。
お紋は慎み深く、それつ切り姿を見せず、美しい女中達も遠く退つて銘々の部屋へ入つた樣子、巣鴨の夜は、滅入るやうに、たゞ深々と更けて行きます。
「野郎ツ」
平次はガバと起きました。
何やら魍魎《あやかし》が、自分の喉首を狙つて居るのを、夢心地に氣が付いたのです。
巨大な怪鳥のやうなものが、平次の胸の上をヒラリと飛びました。
「御用ツ、神妙にせい」
平次は何やら掴んでグイと引くと、一|朶《だ》の黒いものが手に殘つて、曲者はパツと飛びました。恐ろしい輕捷《けいせふ》な身のこなし。
追ひすがる平次は、枕屏風にハタと躓《つまづ》く間に、曲者の身體は、眞に一片の黒雲のやうに、平次の袷を掛けた衣桁へ、サツと消え込んで了つたのでした。
「己れツ」
續いて飛付きましたが、手答もなく衣桁は倒れて、平次が抱き付いたのは、脱ぎ捨てた自分の袷だけ。
「何うなさいました」
やゝ暫らく經つてから、物音を聞付けたらしい主人のお紋は、女中に手燭《てしよく》を灯《とも》させて驅け付けました。
「あ、御新造、到頭」
「——」
「幻の民五郎は、短刀を奪つて行きましたよ」
「えツ」
「面目次第もないが、少し油斷しました」
錢形の平次も、すつかり恐縮して髷節《まげぶし》を叩いて居ります。
「親分、何うしませう」
お紋は根も力も拔けて了つたやうに、冷たい疊の上へ、ヘタヘタと坐り込んで了ひました。派手な長襦袢《ながじゆばん》の上へ、大急ぎで羽織つたらしい小袖の紫が、冷たく美しい女中の差出す手燭の中に、又となく艶めかしく見えるのでした。
「一度はやられたが、今度は——」
平次は急《せは》しく袷を引つかけると、部屋の外へ飛出しました。左手には有明の行燈を提げて、曲者の通つたらしい道を、嘗《な》めるやうに進んで行きます。
「お、此處から入つたのか」
縁側の戸が一枚、物の見事に外されて、其處から點々たる泥足の跡が、平次の寢室まで眞つ直ぐに續いて居るのでした。
「親分、何か見付かりましたか」
お紋と二三人の女中が、恐る/\廊下を覗いて居ります。
「御新造、不思議な事だらけですよ」
「——」
「この樣子ぢや幻の民五郎は、思ひの外甘い野郎かもわかりません」
「まア」
「すぐ捕まりませう、御安心なさいまし」
平次の聲は妙に自信に滿ちて居ります。
「どうか、早く捕へて下さい、あの短刀はざらにある品ぢやありません。鞘《さや》は三つ葉葵の紋散らしで御公儀に書上げのある品、本多上野之介樣の御品と判り切つて居ります」
「——」
「おや、泥足の跡は、入つたのばかりで、出たのがないのは何うしたことでせう」
「——」
お紋は妙なことに氣が付きました。
「それにこんな大きな足の人間はあるものでせうか」
「——」
平次はそれには答へず、其邊中を忙《せは》しく見廻して居ります。
「親分、まだ幻の民五郎が家の中に居たら何うしませう、搜して見て下さいませんか」
「大丈夫ですよ、御新造、その大きな足跡は大一番の草鞋《わらぢ》を穿いて附けた跡で、歸りにはそれを脱ぎ捨てゝ了ひましたよ」
「まア」
「一寸待つて下さい」
平次は庭下駄を突つかけて、暫らく縁の下から庭の植込を搜して居りましたが、やがて、仁王樣の草鞋のやうな、大きな泥草鞋を一足ブラ下げて歸つて來ました。
「まア」
女達の驚きは見物《みもの》でした。
「この足跡はひどい内輪ぢやありませんか」
お紋は鋭い女でした。平次が氣が付いて居るか居ないかわかりませんが、兎に角、先を潜《くゞ》るやうにいろ/\の事に氣が付きます。
「それが面白いところですよ、御新造」
「女——まさか」
お紋はぞつとした樣子で肩を萎《すぼ》めました。
「幻の民五郎が女に化ける筈はありません。これは忍術の方の忍びの足取りです」
平次は腰を浮かして、内輪に爪立つた忍び足をやつて見せました。
「忍術?」
お紋はギヨツとした樣子です。