時計をじっと眺めていると、その秒針が1メモリ進む度、自分の人生の終わりが少しずつ近づいていることに気が付く。どういう人生の終わりが来るのか勿論分かることは出来ないのだが、人生に終わりが来ること自体は確実に明らかな事実である。全ての事象において一つ100%の真理があるとすれば、恐らくこの事実になるだろう。

その確からしさに比べれば、人の感情や想い、意志、やる気、友情、努力、勝利など、全く非力に思える。そんなものは全てフリーザのようなものであって、時に従って姿形は変わるし、変わった姿が必ず強いかといえばそんなことはない。ただ形が変わったというだけで、結局ナッパ、ドドリア、サイバイマンがごとき無力。

人生は終わる。具体的に言えば、細胞はやがて酸化に耐えられなくなり、骨は肉を支えられなくなる。心臓はこれほど高性能に24時間365日、どんなSLAもかなわないサポート体制を敷いているものの、逆にそれに終わりが来ることが確実であることを意識たらしめる。優れたサービスであればあるほど、EOLが辛い。

終わった時には、その終わりすら認識できないのだから、そんなことをくよくよ考えずに楽しくやろうぜ。当然だ。勿論そうだ。そうあるべきだと思う。しかし漫然とした未達成感を時計の針と共に認識してしまった時、それがそのまま人生の終わりまでの道筋として捉えられてしまった時、今確実に100%信頼のおける事実はまさに終わること自身でしかないと知る。

身近に、自分で自分の人生を終わらせた人間がいた。あまり仲良くはなれなかったが、どうやらやはり同じ波長を持った人間であるようだ、と思い直し始めた矢先に、その終わりは鳴らされた。いや、鳴らされたと感じたのは自分であり、終わらせた人間は鳴らしたのである。100%確かな、最も信頼できる事実があるのであれば、それはすがる対象となり得るし、やさしい。

人生の価値は、人をどれだけ笑わせられたか、自分がどれだけ笑えたか、それだけしかない。それ以外の全てはオプションであり、オプションパックである。人を笑わせることでしか自分を救うことが出来ないゾナハ病、それは実験者によって創造されたものではなく、やはり人間の持病だったのではないだろうか。

いま、私は笑っていない。
この私を見て笑う人間もまた、いない。